きてつのブログ

30代初学者が哲学を語れるようになるまでの勉強記

ソクラテスは何がすごかったのか

第4章のタイトルは「ソクラテスプラトンアリストテレス」。

 

言わずもがな、古代ギリシャの哲学者たちだ。

この3人は直系の師匠と弟子のような関係でつながっている。

 

ソクラテスプラトンが、タレスやエンペドクレスといったそれまでの自然科学者たちと違った点はまず、アテナイという大都市の出身だったことだ。

 

多くの自然科学者はイオニアという地方に住んでいた。

だが彼らは、人が多く住む大都市アテナイで生まれ育った。

 

すると自然に、彼らの問いは自らの内面へ向いたのだろう。

 

わかりやすい対比にするとこうだ。

自然科学者:外部世界の探求「世界はどうなっているのか?」

ソクラテスプラトン:人間の内面への思索「人類は何を知っているのか?」

 

 

ここから1人ひとり、取り上げられている。

 

ソクラテス(BC469~399)

ソクラテスは、弁論術に長けていた。彼は人々に対して、生きることについての問いかけを始めた。

 

問いかけを始める原体験となったのは、アテナイとスパルタが敵対したペロポネソス戦争(BC431~404←長っ)だ。

年代を見ればわかるが、ソクラテスは38歳~65歳という、人生の大部分を戦争状態の世の中で過ごした。しかも、彼自身も参戦していたのだ。

 

ペロポネソス戦争では、スパルタが勝利し、アテナイの政治にスパルタが介入することになった。

 

こうした事情で、戦後のソクラテスは、「人間」というものに対する問いを大きくしていったのではないかと考えられている。

 

30年近く戦争をした上に、母国は敗れて政治的主導権を奪われる。

そんな彼の疲弊と挫折はものすごいものだっただろう。

 

そこから彼は、対話によって事物の核心に迫り、真実に迫っていく方法を取った。

俗に「ソクラテス式問答法」と呼ばれるものだ。

人が対話によって物事の真実を自分の中から生みだすことを手助けすることから、産婆術とも呼ばれた。

 

ソクラテスが生んだ代表的な概念である無知の知

これは正しくは、「不知の自覚」というらしい。

 

 

ただ、議論をふっかけて問いつめていくスタイルは、不知を自覚させる効果はあるが、だいぶ反感も買ったんじゃなかろうか。。

少なくとも現代でやったら炎上しそう。

 

そんな傾向もあってか、ソクラテスは恨みを買い、公開裁判で死刑が確定。

処される前に、自ら毒を飲んで死したとされる。

 

 

ちなみに、ソクラテスは書物を残していない。

のちに『ソクラテスの弁明』という書を、プラトンが著した。

これは、ソクラテスが裁判にかけられ、法廷で語った内容を記述したものだ。

 

だから、現代に伝わるソクラテス像はプラトンが作り出したもので、本当に偉大なソフィストだったかどうかは定かではない、無批判に受け取るべきではないと著者はいう。

 

 

 

先に続きを読んうえで述べると、哲学者としての功績や名声は、弟子のプラトンアリストテレスの方が大きいのかもしれない。

 

ただ、ソクラテスの功績は、概念をつくったことではなく、「哲学の手法・スタイルを編み出したこと」にあるのではないかと思う。

 

人間の内面を見つめるために、対話を使う。

 

それがのちに、プラトンアリストテレスによる概念創出を助けたのだろうと。

その土台を作ったという意味で、ソクラテスの存在は彼らに並立するものなのだ。

 

手法を発明した人と、その手法を使って新たな物事を発見する人、そのどちらが欠けても、学問は進まない。

ソクラテスの生涯と、やったことを学んでいくと、そんなことを思った。

 

 

歴史を知ることは面白い。

すべての人やコトは点ではなく、流れの中で線として存在していることを感じさせてくれる。

 

ソクラテスの弟子たちの活躍については、また次回としよう。

 

※参考テキスト

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